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壱岐タケチトのブログ旅行恋愛記

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□ 国内旅紀行 □

2011年1月7~9日石垣島・西表島・沖縄本島 旅紀行 3日目~さようなら、沖縄~

2011年1月7~9日
石垣島・西表島・沖縄本島 旅紀行 
3日目(1月9日)~さようなら、沖縄~

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パタコと飲みに行ってホテルに帰ったが、飲みすぎたのもあるが帰ったらそのまま、寝てしまっていた・・・


そして次の日・・・


僕は沖縄の最終日を迎える・・・








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またまた朝ごはんは和食。

ホテルの和食って本当、おいしいですね!

セットメニューの方がバイキングみたいにおかずを取りすぎなくていい!

体にもいいしね!






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こちらは、ザ・ナハテラスのロビー。

さあ・・・最終日、頑張るぞ!


最終日は那覇市内のみを観光です!


バスは那覇観光バス。


驚いたのは観光バスは100台ぐらい保有してガイドさんも60人ぐらいが正社員だという・・・


この数は半端ではなく多い数と言うのは業界の方ならわかるであろう・・・


沖縄本島であれば、世界中から観光客が来るのでこれでも足りないのだろう・・・


また、本州などと違って団体ツアーの観光客は移動手段が観光バスのみになるから多いのもあると思う・・・


運転手さん、ガイドさんともに親切な方々だった。








【最終日程表】


1/9(3日目)

ホテル==那覇市内観光(首里城======摩分仁の丘*徳島の碑======
8:30     8:40~9:45             10:25~11:20



===ひめゆりの塔(資料館)=====ひめゆり会館=====お酒店立ち寄り
     11:40~12:45        11:40~12:45     13:45~14:10



那覇空港      那覇空港――飛行機――神戸空港
14:33        16:35          18:25


神戸空港==バス==徳島
18:50         21:20









首里城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。


概要 [編集]
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。

歴史・沿革 [編集]
首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。



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*首里城
http://www.flickr.com/photos/skrb/197782639/

首里城公式HP


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首里城の守礼門到着!
一昨年家族で来て以来になる。
あの時は暑かったが今回は寒い!





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展望台から見渡す那覇市内。






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首里城で記念の一枚!






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この真っ赤な建造物は何回来ても素晴らしい世界遺産だ・・・






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首里城の売店の横の博物館のもの。興味があったので撮った。






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同じく。何か伝統的って感じがする。











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沖縄南部に平和祈念公園へ到着。
こちら糸満市(いとまし)は沖縄本島の最南端になる。









沖縄戦跡国定公園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沖縄戦跡国定公園(おきなわせんせきこくていこうえん)は、沖縄県の沖縄本島南端部、糸満市と八重瀬町にまたがる、第二次世界大戦(沖縄戦)の戦跡と自然景観を有する国定公園である。


概要 [編集]
沖縄戦跡国定公園の広さは81.3km²(陸域31.27km²、海域50.03km²)。戦跡としては唯一の国定公園である。

1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い、国定公園に指定された。

公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けた。

詳細は「沖縄戦」を参照

沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としている。例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。

公園内の慰霊施設等 [編集]
沖縄戦跡国定公園には、多くの慰霊施設・慰霊碑・慰霊塔がある。慰霊碑・慰霊塔の数は、主要なものだけでも100余にのぼる。

沖縄平和祈念公園 [編集]
国定公園内の東部、糸満市摩文仁(まぶに)地区に所在。付近一帯は摩文仁の丘とも呼ばれる。園内には、国立沖縄戦没者墓苑・平和の礎(いしじ)・黎明之塔、日本各県出身地別の慰霊・平和祈念施設、式典会場や駐車場などの付属施設もある。公園に隣接して沖縄平和祈念資料館・沖縄平和祈念堂がある。

沖縄県平和祈念資料館 [編集]
詳細は「沖縄県平和祈念資料館」を参照

沖縄県平和祈念資料館は、「第二次世界大戦で貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するため」に平和祈念公園内に設置された資料館である(沖縄県平和祈念資料館及び平和の礎の設置及び管理に関する条例1条)。 1975年(昭和50年)に開館した。 沖縄戦に関連する軍関係文書や個人所蔵の文書、ひめゆり学徒の手記などが収蔵・展示されている。 館内の展示は、「沖縄戦への道」、「戦場の住民」、「証言の部屋」、「収容所から」の4部で構成される。証言も聞ける。

沖縄平和祈念堂 [編集]
沖縄平和祈念堂は、恒久平和を祈念して平和祈念公園内に建造された高さ45m、七角形の堂塔である。内部には沖縄平和祈念像が置かれ、周囲には平和の鐘・美術館などが配されている。

国立沖縄戦没者墓苑 [編集]
国立沖縄戦没者墓苑は、18万余柱の遺骨が安置されている納骨・慰霊施設である。1979年(昭和54年)2月に建立された。赤瓦が葺かれた参拝所と石を積み上げた琉球墳墓風の納骨堂、それを囲む広場からなる。近くには各府県や各種団体の慰霊碑・慰霊塔が多数建立されている。

平和の礎 [編集]
平和の礎は、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑である。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立された。海岸線を見渡す平和の広場に建てられた、屏風型の花崗岩に銘が刻まれる。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年(平成21年)6月21日時点で24万856人。

黎明之塔 [編集]
黎明之塔は、司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将を祀る慰霊塔である。戦跡と太平洋を見渡す丘の上に所在し、司令官が自決した司令部壕跡の上に建つ。

島守之塔 [編集]
島守之塔は、沖縄戦で殉職した島田叡知事(兵庫県出身)と県職員453名を祀る慰霊塔である。1951年(昭和26年)に旧県庁の生存者三百数十人や県民を中心とした浄財の寄付により建立された。

糸満市米須霊域 [編集]
糸満市米須霊域は、平和祈念公園から2.5kmほど南西の糸満市米須(こめす)にある霊域である。域内には、各都道県の慰霊碑や、有川中将以下将兵自決の壕・慰霊塔などがある。また、中心にある「魂魄の塔」(こんぱくのとう)は、沖縄戦に関連して沖縄各地に存在する慰霊塔のうち最古のものとされている。霊域西側には、1993年(平成5年)の第44回全国植樹祭の会場となった沖縄県平和創造の森公園が広がる。

ひめゆりの塔 [編集]
詳細は「ひめゆりの塔」を参照

ひめゆりの塔は、糸満市米須霊域の北、糸満市米須に建つ。沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の職員・生徒、計219人が合祀される慰霊塔である。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の職員・生徒で編成されたひめゆり部隊は、従軍看護婦として動員された。



800px-Okinawa_prefectural_Peace_memorial_Museum-2007-06-27_4[1]
*平和の礎
ウィキペディアフリー百科辞典より



沖縄平和祈念資料館公式HP











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徳島慰霊の塔。

徳島県の修学旅行で沖縄に来ると必ずここは訪れる。
(全部の県がありますので各県の生徒様も行かれると思います)





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徳島の塔。
けっこう駐車場から遠くにあったので長かった。
駐車場からは北海道の北から東北、が比較的近い。
関西、四国、九州が最後のほうにある。

ここで僕たちは1分間の黙祷を行った。

この地で亡くなられた徳島県の方々へ・・・






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こちらは世界平和を願う泉水である。







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見渡す海岸。
沖縄本島最南部である。


続いて僕たちはひめゆり資料館を訪れる・・・









ひめゆりの塔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在のひめゆりの塔(手前): 奥に見えているのは慰霊碑(納骨堂)、塔と慰霊碑の間に口を空けているのが第三外科壕ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。


概要 [編集]
慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となった。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。

ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

歴史 [編集]
1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。

戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。

最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に死亡した。従って、第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに生徒5名のみである。文学作品では、発煙弾である黄燐手榴弾の攻撃を毒ガス弾によるものと誤認しているが、毒ガス手榴弾は米軍では使用していなかった。なお、化学兵器になると現地司令官の裁量で使用出来るものではなく、最低でも方面軍司令官の命令が必要なものである。

第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。

戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見される。その後、アメリカ軍によってこの地に住むことを命じられて住んでいた真和志村の人らによって遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられた。

ひめゆり学徒隊という名称は動員当時から存在したが(ただしひらがな書きが用いられるようになったのは上述の通り戦後になってから)、兵士らにとっては所属校がどこであるかはほとんど問題にならなかったので、実際にはこの呼称はほとんど用いられず、学生さん、学徒、などと呼ばれていたという。なお、ひめゆり学徒隊以外にも他の学校の生徒を集めて作られた学徒隊は別にあり、それぞれ所属校にちなんだ名称がついていた(県立首里高等女学校のずゐせん学徒隊などが有名)。これらの学徒隊もほぼ同様の運命をたどり、それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられている。なお、併設されているひめゆり平和祈念資料館開館20周年を記念して2009年(平成21年)6月23日(沖縄慰霊の日)に全面改修され、これまで記載漏れがあった生徒の名前が新たに記された。

施設内容 [編集]
館内は暗く序盤は写真と共に沖縄戦体験者などの言葉がかかれたものが壁に掛かっておりそれを閲覧できる。そばには実際の防空壕をモデルとしたジオラマが作られている。 次に時間ごとに沖縄戦を中心とした太平洋戦争の映像が流されている部屋がある。 最後は学徒隊の亡くなられた生徒の写真が壁中に貼られており、その写真の若さから戦争の悲惨さを実感させられる。BGMとして「ふるさと」が流れている。






ひめゆり学徒隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前。通称としてひめゆり部隊と呼ばれることもある。


概要 [編集]
母体となった沖縄県女子師範学校(女師/1943年4月に師範学校教育令の改正に伴って沖縄師範学校女子部へ改組)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)は、設立当時の沖縄県の財政事情から併設校とされ、校長および一部の教師は兼任であった。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったという。

名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み、昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で[1]、1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようである。

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は沖縄陸軍病院の看護要員として動員された(ただし、強制ではなく志願)。しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決している(自決の強制性については論争あり。当該項目を参照)。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。

戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うものである。

なお、敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としている。一方、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料ではひめゆり学徒隊の動員数を240名、うち戦没者を136名としている(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)。この相違は、「ひめゆりの塔の記」では学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによる。また、以前に戦没者の合計が219名とされていた時期もあったが、これは2003年7月の調査で判明した7名を含んでいないため。なお、「その他の戦没者」には沖縄戦開始以前の死者[2]が含まれているが、これはいずれも「原因が戦争に関連している」との判断によるものだという。彼女たちの御霊は、同様に動員されて生命を失った学徒兵たちと共に靖国神社に合祀されている。

犠牲者の詳細 [編集]
2004年現在、沖縄戦で亡くなった女師・一高女の人数の内訳は以下のとおりとされている。なお、<その他>は沖縄戦開始後に陸軍病院動員以外で亡くなった人(他の部隊に協力中、学徒隊への参加途上、家族と共に避難中など)を指す。



映画『ひめゆり』公式サイト


ひめゆり平和祈念資料館 公式HP





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ひめゆり部隊・・・


1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊をそう呼んだ・・・


戦争が激しくなって沖縄に240人が動員された彼女たちの任務は負傷した兵士の手当てや手術、ご飯の支度や片付けも彼女たちの仕事であったそうだ。


迫り行く戦争の中、昭和20年6月18日の夜・・・ついに、解散命令が出た。















「今までよく頑張ってくれた!我々は今日で解散する。これからは自らの判断で行動するように!」















突然、解散を言い渡されても食べるものもなく逃げ回るしかない・・・


防空壕から出ようにも怖くて出られない・・・


出た方がいいのか・・・


出ない方がいいのか・・・


結果として・・・


防空壕に毒ガスを吹きこまれ亡くなった人・・・


防空壕を出ても手榴弾を投げられ即死した人・・・


アメリカ兵に射殺された人・・・


自ら海に飛びおりて命を絶った人・・・


僕はこのひめゆり資料館で本当に生々しく・・・そして戦争のいたたまれないような恐ろしさと残酷さを感じたのだった・・・・















「なぜ私が生き残ったのか?!
友人に”ごめんね!ごめんね!”って心の中で叫んだけど・・・
亡くなった友人に申し訳なくてたまらない・・・(涙)」

*ひめゆり資料館のビデオで元ひめゆり部隊の女性より















「二度とあのような戦争をあらしめないためには、自分たちが体験した戦争の実相を伝えなければ!」


ひめゆり同窓会の生存者の方たちが証言員として展示室で来館者に対話を伝えてきたそうです。


今の僕たちは戦争を知らない・・・


今とは関係のないものかもしれないと思っている子供たちもいるかもしれないが・・・



沖縄の”ひめゆり資料館”、


ここには本当に戦争の実体験が、熱いほど心に伝わってくる資料が揃えられている。


戦争は決して昔のこととか自分たちに関係のないとは思わないように・・・


僕は自分の子供にもそう教えていきたい・・・


ひめゆり部隊・・・


なぜ、私達がこのような辛い目にあうのか・・・


さぞかし、恐ろしかった、辛かった・・・そして、戦争が憎かった・・・


ひめゆり資料館では彼女たちの生きざまが痛いほど伝わった。


ここは僕は2回目だが・・・何回来ても学ぶものが違う。


いつかはもう一度、坊主が大きくなったら連れてこれたらと思う・・・















その時まで平和を願って・・・
PaperCranes[1]
ウィキペディアフリー百科辞典より


















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ひめゆり資料館の横のひめゆり会館での昼食。

沖縄県最後の昼食だ!







CIMG9818_convert_20110119001709.jpg
このドーナツ、個人的に凄くおいしかったので撮影!

ひめゆり会館のオリジナルで限定販売だそうです!







CIMG9820_convert_20110119001811.jpg
最後にお土産をご紹介・・・

ちなみにこの紫芋タルトは今は沖縄のお土産で最も人気があるそうです。
沖縄の紫芋は沖縄だけのもので県外に持って帰れられないそうで(このお菓子は大丈夫です)
味もおいしいですよ!

ちんすこうは沖縄では定番すぎるお土産になっているみたいで今は
「ちんすこう以外のお土産にして」
と、留守の方にはよく言われるそうですね・・・(笑)









さて・・・僕たちは、この後、那覇空港へ向かって、沖縄を後にしたのでした。


今回は、初めての石垣島ということで、物凄く勉強になった添乗でした。


沖縄は何度来てもいい・・・・


それぐらい、今回で沖縄が好きになりました。


沖縄本島、石垣島などの離島ではそれぞれの良さがあり、比較はできませんが・・・


個人的にはやっぱりもう一度石垣島に来てみたいと思いました。


離島や島、そして大自然が好きな僕にとって今回の石垣島、西表島は僕の旅行記でも、


ベストにあげられる場所でした・・・


沖縄の・・・石垣島の蒼い海・・・

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No.2864 水中峡谷
石垣島の海中の景色です。
http://www.yunphoto.net/






絶対にあおいと坊主を連れて・・・
CIMG3431_convert_20110123150228.jpg
CIMG3451_convert_20110123150336.jpg
CIMG3493_convert_20110123150504.jpg














また・・・この沖縄へ訪れたいものです・・・


それまでの間・・・少しお別れですが・・・


その時まで・・・
















さようなら沖縄!想い出をありがとう!
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長かった沖縄の旅紀行も終わりました・・・・



最後は少し駆け足になってしまいましたが・・・



最近は本当にピアノ練習に熱が入って来たので・・・



旅行記は終わりましたが・・・


次回は沖縄番外編に入ります!



次回、


2011年1月7~9日
石垣島・西表島・沖縄本島 旅紀行 
3日目(1月9日)~あの日から5年・・・あおい、これからもよろしくね!~


です。



この次はいよいよ海外旅行記

”ベトナム・カンボジア旅行記”です!


どうぞまたご覧ください!


2011年1月27日
壱岐タケチト
関連記事

*    *    *

Information

Date:2011/01/27
Trackback:0
Comment:2

Comment

*

お久しぶりです。沖縄旅行お疲れ様でした。
本当に沖縄は魅力満載ですね。私も行ってみたくなりました。
2011/01/28 【さくら】 URL #- 

* Re: タイトルなし

さくら様
お久しぶりです。
本当に最近寒いですね!
明日からまた夜行でダイナランドスキーの添乗に行ってきます。
沖縄は本当に、「特に離島」がよかったですよ。
ご機会がありましたらぜひ行って見て下さい。
壱岐タケチト


> お久しぶりです。沖縄旅行お疲れ様でした。
> 本当に沖縄は魅力満載ですね。私も行ってみたくなりました。
2011/01/29 【壱岐タケチト】 URL #- 

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